ジーンとミーム

別れた女房に未練はないが、お乳ほしがるこの子が可愛い~、で始まる浪曲子守唄というのがあった。団塊ジュニア世代だと、祖父が聴いていて知ってる人も結構多いのではないか。

 

そうだな、女房に未練はなくとも、子供がいないのは寂しい、のではなく悔しいのが正直なところだ。

 

ジーンを残せないのなら、あとは、ミームにかけるしかないか。

 

人生なんて死ぬまでの暇つぶしなどと達観することなどできない。

 

余生だなんだって諦観キメてるような奴も、それは余生芸人みたいなもんで、そのミームを伝染させようとネットで価値観をバラまいているじゃないか。山奥独りで暮らす仙人なんてホンモノはいないんだよ。

 

生きている限りは、苦しみながらも人としての欲望を追求するしかないんだ。

 

どうせもうすぐ死んでしまう、っていう点は、諦観君と同じ価値観であり、いや、価値観というかこれは絶対的真実だな。生きている間に何を残せるかだ。ブログやツィッターは含まない。

孤独を飼いならす

実はかなりの上級テクニックである。

 

俺はいくつか手札を持っているが、それでも心許ない。

 

できれば、再婚を目指すとか、人とのつながりを持つ努力を欠かすことはできない。

 

おひとりさまがどんどん増えれば、そういうつながりの場も増えるのではないかと安易な淡い期待はあるが。

 

いずれにしても、一緒にいて楽しい面白い人間になる努力はし続けなければならないな、人間である限り。

 

人間にとって最も辛いのは孤立。

沈黙

沈黙/遠藤周作を読んだ。

 

一神教の世界での神は、日本で変質してしまう。あらゆる人々に語られてきた日本特有の現象。

 

いろんなものを取り込みアレンジして、ユニークなものを生み出す文化は素晴らしい。

 

ただ、一神教の世界における神からの視線を持っている奴らのほうが孤独には強いだろうな。家族が機能しなくなっている現代日本、孤独に心をやられてしまっている人々が増えている。俺もその一員になりつつある。

 

あと、戦国から江戸、戦前から戦後など激動期には、生まれた年によって天国から地獄の格差が発生するんだなあと改めてしみじみと思った。団塊団塊ジュニアの差なんて、それからみればぬるま湯だ。ジュニアはまだ裕福な団塊の恩恵を受けている人たちも多いだろうし。

 

キリシタン大名が存在した頃と、禁教になった以降と、信徒や宣教師にとっては天国と地獄ほどの差がある。宗教はチートレベルで心を強くすることが可能だけど、それだけ社会や為政者から迫害されるリスクが高まる。であるので、完璧なチートなどではなく、心強化のパラメーターに全振りという状況だったってのが近いか。

 

翻って現在、あらゆる自由が保障されている。歴史関連の本はよい。今って本当に恵まれているんだと思えるから。綺麗ごとばかりのファンタジー歴史ものは読む気がしないが、ガチの先人達の生きる為の苦闘が伝わってくる本は読みたい。

waiting for death

好きな女を孕ませて子供をつくる。それが最も強い男の欲望である。

 

ところがそれが適わなかった男達が今はたくさんいる。

 

2100年、日本の人口は今と比して三分の一になるという。

 

そういう時代だ。

 

独男はどうすればいい?

 

快楽を追求するしかないね。

 

どうせもうすぐ俺達は死ぬ。

 

悪あがきして、女をとっつかまえて孕ませるのもありだ。

 

それが無理なら、社会の役にたつふりをして言説をまきちらすとか、今の仕事に無理やり意味を与えてムキになって働くとか。

 

もうすぐAI、ロボットに取って代われてそれが無意味になるのかもしれない。

 

ただ、今は無理やり意味を与えて、自分の実存を慰める行為しかできないだろう。

 

子供がいるかいないかはでかいね。特に直径家族主義の日本では。

 

社会全体で子供を育てりゃとかそういう理想論を唱え、未来はそうなるのかもしれないけど、すぐにはならない。今、寂しい人たちは救えない。

 

それに、かつては農村全体で子供たちを育ててたんだよ。社会で子供を育てよう論は、単に反動、ムラ社会への回帰主義でもある。

 

ちがうだろ。個人主義、わがままだろう。

 

団塊世代どもは、大家族主義のわずらわしさを疎い、核家族をつくったんだろうが。

 

そして、その子供たちは、孤独に打ち震えている者たちが多くいる。

 

どうなるんだろうな?わからん。

 

ただ俺は言いたい、そんなに簡単に離婚するんじゃねえよ。

 

俺の孤独な叫びだけが、都市の闇に虚しく消えていく、今宵の夜である。

ヒトカラ

夜勤明けにほろ酔いでヒトカラに行ってきた。

 

季節が君だけを変える、サボテンの花あの素晴らしい愛をもう一度パワーソングなどを歌ってロンリーな自分に酔う。

 

牛角に行った後は、必ずといっていいほど二人でカラオケに行った。それも、俺が酔っぱらった勢いで気持ちよくなりたがたいためだったに過ぎなかった。彼女はいつも快くつきあってくれた。もう、そんな恵まれた時間は二度と戻ってこない。カラオケに行くことも無くなっていくのだろう。

 

元々、一人でも飲みにいけちゃうタイプなので、ヒトカラにはまた行くことあるかもしれない。酔えば一人の寂しさも吹き飛ぶから。それでも、行ったとしても、繰り返し後ろ向きな感傷に酔うだけなんだろうがなあ。