絶望を捨てる

離婚に苦しむ人へ、というプロのグリーフカウンセラーが主催しているブログにお世話になっている。

 

その中で、希望と絶望を分離する方法ということで、絶望、希望それぞれ50項目を目指して書き出してみた。

 

50個には及ばなかったが、それぞれ書き出した。そして、絶望を書いた紙のほうだけゴミ箱に捨てた。なんだろう、それ以来、急に心が軽くなったように思える。希望のほうは今も何度も反芻している。

 

人間には絶望と希望の二つの価値観しか存在しない。これを実感する。

 

どちらを選ぶか、それは誰でもない、自分次第。

蘇るのは

二人暮らしたアパートの間取り、室内。ものすごい鮮明に蘇り、ひとりよがりのタイムリープに浸ってしまう。客観的には、無駄な行為であるとはわかっているんだけど。

 

人間にとって住というのは、最も強い精神的影響を与えるのでないかな。改めてそう思う。酒に酔って帰ると、どうしても、あのアパートに帰れば、玄関に灯がついていて彼女がおかえり、と言ってくれるような気がしてならない。

 

要は寂しいんですよ

元嫁は聞き上手なタイプだったので、私の受け売り話も興味深そうに聞いてくれた。

 

読書好きなので、話すネタは次から次へと出てくる。それを聞いてもらうのが本当に幸せだった。そういう人が居てくれるってのは有難い貴重なことだったんだ。

 

今だったら、金払ってスナックなどに行かないと聞いてもらえない。安月給なので、スナックやらキャバクラなんて通えないし、なんか虚しいしな、今までと比べてしまうと。あーあ、貴重な嫁を失ってしまった。また、後ろ向き思考だが当分後ろ向きはやめられない。だが、いつか、スパッと生まれ変わりたい、という思いは抱いている。これって例の明日からがんばる思考と一緒なのかなあ。わからん、だが、いつか、前向きになれる日が来るだろう。

 

ところで、スナックってこれから需要が復活するんじゃないかと思うんだが、どうだろうか?性的な欲望で若い女を求めるキャバクラでなくて、ただ寂しいから話を聞いてもらいたいという需要を満たすことを最優先する、っていうとスナックっていう場所がしっくり来るように思える。今後も、独身者は増える傾向にあるんだろう。便利になり、一人で快楽は満たせるけど、話を聞いてもらいたい欲はどんどん満たせなくなりそうな世の中だと思うんだ。ブログやツィッターで独り言を垂れ流して、なんとなく自己満している人々は増えているけど、やっぱ、面と向かって話を聞いてもらいたいっていう欲は強いはずだ。

やってはいけないことをやっているのかも

さんざん離婚に関する情報を読んできたが、どれもこれも、いや離婚に限らず、人間は前を向いて生きていくしかないってのがほとんど真理。

 

後ろ向きを推奨している文章なんて読んだことねーぞ。

 

おかしいな。ほんとの願いを願って何が悪い?

 

俺の嘘、偽りの無い、真の願いは、時間を遡り、元嫁とあの日あの時間をやり直すこと。

 

だが、世の条理はそれはありえないだけでなく、害悪だと申される。

 

うーん、どうしたもんかな?俺は、間違った方向に思考を働かせているんだろう。いや、客観的にはわかっているんだけど、理性より感情のほうが強いいきもんだろう人間っていうやつはよ。

 

他人事だから、過去の思い出に固執するのは無駄だっていえる。そして、それはきっと正しいんだろう。

 

 

 

 

なんでもないようなことが

なんでもないようなことが幸せだったと思う。って歌詞はなにげに真実だよねって二人で会話もしていたのに、なんでこんなことになってしまったんだ。重い重すぎる。唯一の夢はあの頃に戻ること。それが無理なんだったら、なにを希望に生きていけばいいというのか。

 

 

だめだわ

簡単に忘れられるわけがない。トータルで17年もつきあってきたんだ。

 

もうだめ、無理。

 

とにかくつまらない。何もかもがつまらない。共有できないなにもかも。寂しい、虚しい。こんなぶろぐ書いてたいくない。最悪だ。だが、自殺は絶対にしないというかできない。ただ自暴自棄はできるかもしれない。どうせなら、おもしれーことやってやりてえわ。